自分のエンジン

を発見させることが出来たら教育は一応の責務を果たすと僕は思っている。ところが人間は驚くほど多様性に満ちていて、同じ方法を押し付けてもうまくゆかないし、かと言って自分の力で発見と前進を繰り返すことが出来る人間となると一握りの天才のみ。そんなことを毎日考えながら最近の教育現場から抜け落ちたものは何だろうと日夜煩悶して来た。とにかくアート系の大学でもレベルの高い学校(俗に言うところの偏差値)でも最近目に付くのが、表現や社会以前の「人間力」の低下。
まずそこを乗り越えさせない限り、上っ面の文章が書けてもきれいにデザインが出来ても若い間数年飛ばせるだけで終わってしまう。乱暴な言い方だが何か「基本」と呼ばれてきたような何かを身体化しないうちに時代に流されてしまい、気がつくと何も確かなものが無いまま年だけ重ねる自分に気づくのだ。
これは不安をかきたてて大量消費を促すアメリカ型の経済システムに教育官僚達が全面降伏したために起こった第二の人災と言える(ゆとり教育や週休2日)のだが、そんな愚かな政策に翻弄されてしまった我々教育者の罪はもっと重い。
しかし、今危惧するのは「ゆとり教育」のゆり戻しで、ひたすら訓練や修行系の物量作戦のみに落ち込むこと。とにかく科学的な検証や努力をしないで、反対されたから逆の提案してみました!というような子供じみた指導者達の信じがたい短絡ぶりをまた見るのだけは御免こうむりたいのである。極端な部分では突出した予算を出すくせに、ほんとうに地味に国民を育ててゆく研究にはまったくメディアも注目しないのは驚くばかりだ。教育が運まかせ(素晴らしい指導者との出会い)で、それが美談になるというのは本来恥ずべきことなのだ。
もはや大学は遊びに行くところでは無い。合理性のある柔軟なエクササイズが大量に科せられ、トレーナー(教官)が逐次脳と身体の連携レベルをチェックしながら次のメニューを与える。自主性と言うのはほんとうに都合の良い言葉であって、教官の好き勝手に手助けをしているだけということに学生自身も気づくべきなのだ。教官の研究も重要だが、教育である限り多様な個人のポテンシャルを科学的に最高度にまで高める「教育研究力」の徹底評価もしなければならないし、もちろん単位の認定も相当敷居を上げる必要がある。それらが相乗効果を発揮するとき、はじめて社会に出てゆける人間を創ったと言えるのではないか。