ゲットーリフレクション

昨夜の食事がもたれて夜は何度か目が覚めた。朝7時に起きてクロワッサンで朝食。そのまま相馬さんと合流して空港へ向かう。少し渋滞はあったもののゆっくり間に合って機内の人となった。今日もガザ地区では衝突が起こったとのニュースが機内で流れているが、僕に関して言えば荷物はノーチェックだった。PCをはじめDVDプレーヤーや乾電池やデジカメなどが満タンになっているのにいままでで一番ゆるいくらいの検査である。テルアビブ行きの航空機だけが機内への通路でも抜き打ち検査で身包みひっくりかえされている人も多いのに、ムッシュどうぞとニコニコされて拍子抜け。
機内で地球の歩き方2002年バージョン(最近は情報が無い)をチェックして、滞在先をエルサレムシェラトンに設定。この先アラブ圏へ旅行できなくなると困るので入国審査では「ノースタンプ・プリーズ」と言うことを忘れないように確認。いよいよ緊張のイスラエル入国である。若い女性の係官が無言のまま数分パスポートを調べたあと、一言旅の目的を聞く、「ジャスト・サイトシーイング!」ついついジャストなどと要らない言葉を口走ったものの意外にすんなり入国できた。テルアビブ空港は地方都市の小さな空港という感じ、兵士がいっぱいかと思うと誰もいないし、見た目には緊張感は感じられない。
空港には、アルカサバのボス、ジョージ・イブラヒムさんが満面笑顔で迎えに来てくれていた。いよいよ彼の車に乗ってアラファトも住むラマラに入る。もちろん予想はしていたが岩と泥の砂漠が延々と続く丘を中心に同心円を描くように転々とイスラエルの住宅とパレスチナの住宅が混在し、それをわずかばかりのオリーブや潅木が取り囲んでいる。この地でイエスが誕生し、ガリラヤ湖の周辺を歩き回って布教し、ローマやエジプトの大軍が何度もこの地を蹂躙したのかと思うと、なぜこのような不毛に見える土地が争いの舞台になったのか、にわかには理解し難いものがある。
そして二箇所ほどのセキュリティーポイントを通過して、最後のゲートに来た。まさにここはパレスチナ全体を収容所化しようとするシャロン政権の妄想が衝突する場所なのだが、事前にネットなどで調べていた写真に比べ、意外なほどに存在感が無く弱弱しいものに僕には思えた。その感情が起こった原因にはいくつかあるのだが、相馬さんから機内で見せてもらったドキュメンタリー映画ミュール(ウォール)のリーフレット写真が一因かもしれない。壁をテーマにしたそのリーフレットに、壁が無かったときの光景がノスタルジックに描かれている一枚の写真があったからだ。決定的だったのは、写真の絵を描いたのがイスラエル側であり、イスラエルの人々がそれを描いたという事実である。
いつの時代も、壁は支配者側の恐怖心を素直に反映する。万里の長城は、流れ込む匈奴へ恐怖心に打ち勝てず膨大な労力をかけて信じがたい構築物を残し、ベルリンの壁は自由を求めて移動するの人々を妨げようとする圧政者の小心と脆弱さが分厚いコンクリートの壁となってあらわれた。そして21世紀の壁はセキュリティー(安全)という時代の言葉とともにレゴの増殖を思わせるかのように不思議な形のパネルが見えない安全という地平を求めて延びて行く。
ようやく混乱する最後のポイントで若く美しいイスラエルの女性兵士のパスポートを提示。くったくのない笑顔でパスポートを返してくれる彼女に目を見て、おもわず悲しい思いがこみ上げてしまう。もし平和な時代であれば親友になれたような若者達がなぜ壁を挟んで相手を傷つけあわねばならないのだろう。あまりに素朴な感情とは言え、永遠に言葉になることは無い深い疑問が胸に沈む。
さあパレスチナだ。イブラヒムさんのアウディーはチェックポイントを越えたあと水を得た魚のようにどんどん走る。しかし気持ちと裏腹に道路はデコボコであちらこちらに穴が空いて悲惨な状態になった。総てのインフラをイスラエルに依存するパレスチナにとって今の状況はかろうじて生命線を維持せざるを得ない状態なのである。そうこうするうちに目的地のラマラに着いて彼のアパートに案内された。
彼の住居は、93年オスロ合意のあと続々と建築されたパレスチナの富裕な人々が住むエリアにある6階建てのマンションなのだが、エレベータで最上階に案内されて驚いた。これが東京やパリなら数億は下らないような広壮な邸宅である。5階をゲスト用に6階を自宅にしていて、劇団員や職員がチェックポイントを閉鎖されて帰宅できないときや、我々アーティストがラマラに来たときのレジデンスにもなっている。
荷物をひらく暇も無く、さっそく3キロほど離れた市の中心部にあるアルカサバ劇場を見に行く。中心部とは言えインティファーダの後はインフラが寸断されて疲弊し、壁の建設が始まってからは物流も環境客も途絶えて閑散としている。以前はエルサレムや近隣の町から観客が押し寄せていたという劇場の物悲しいネオンが僕達を優しく招きいれた。
とは言え、彼や欧米に住む有志が私財を投じて踏みとどまっている劇場は、我々が恥ずかしくなるように見事な運営が為されていた。詳しくは機会を見て書くが、ハードのみに資金を投じてあとは野となれ山となれ式の日本の対極にあると言ってもいいだろう。今日は到着の報告と表敬訪問のみということで、軽く内部を見た後近くにあるラマラで一番というレストランへ向う。美しいテラスのあるレストランでいきなりパレスチナ料理(基本的にレバノンやシリアと同じ地中海料理)のストレート攻撃を受けた。信じがたいほど食材に力がある。まず数種類の豆やヨーグルトを使ったペーストをナンのようなパン(これが何種類もある)で掬い取って口に運ぶ。とにかく空腹だったこともあって、次々に食べていると、ジョージからが「メインが来るからほどほどに」との警告。僕はシュリンプとライスを使った料理。相馬さんは肉料理。
日本を出ると、どのレストランに行っても凄い量が出てくるのはいつものことだが、案の定ここのメインディッシュの量も一筋縄ではゆかない。ふーふー言いながら時間をかけてなんとか食べてゆく。ジョージが吸うナギラ(アラブの水パイプタバコ)の香りが心地よく、遠いところへ来た実感をいやがうえにも高めてくれる。もちろんアラブの流儀にしたがって、みんなで回し飲みをしながらゆっくりとふけてゆく地中海の夜を楽しんでいると、ここがあのパレスチナだとはとても思えない。もちろんここから遠いガザ地区では今日もあちこちで戦闘が起こっていると思うと複雑。
そのときだ、パラパラパラという乾いた音が20秒ほど断続的に僕の耳に飛び込んで来た。「あれは銃声?」即座に僕はジョージに聞いた。しかし彼は相変わらずパイプをくゆらせながら「気にするな」と悠然と構えている。もちろん満員に近いほかの客も誰一人その音を気にする様子も無く食事を続け、三々五々家路についていった。
何度も厳しいチェックをくぐりあまりも多い情報を取り込んで興奮した僕の脳は、いろいろな色に彩られたレゴブロックのようなウォールが行き来するトロンのような夢を見ていた。