長い夏

対岸の溶鉱炉

がまだ続くなかNAMURAのミーティングは不思議な感動に満ちていた。僕たちが紀伊半島から韋駄天のように駆け戻ったという身体に蓄積された運動エネルギーからのフィードバックもさることながら、廃墟化しつつある壮大な工業の痕跡と何億年も変化することの無い海と山というプラットフォームの持つ衝突エネルギーが何かを活性化させていたことは確かである。
そう考えて見ると建築はもうひとつの見方からアプローチすることが可能かもしれない。内容物、つまり蒸気や水や硫酸やら溶けた鉄やら、そういったものを閉じ込めて人間が再利用できるようにするために、建築は外皮から決まってゆくという考えだ。これは外骨格という意味では昆虫的と呼べるかもしれない。工場がなぜ僕をワクワクさせるのかを考える時、目の前にそびえる巨大な無意識の外皮によって生物学的に強烈な記憶が呼び覚まされるという事実を忘れることができない。

蒸気を閉じ込める表皮。うごめくケイオティックなものを封印する美学。無理に人を止めるコンクリートの壁、無理に水を止めるダムの壁、無理に原子を閉じ込める発電所の壁。僕は近代の自我が産み落とした威圧的なコンクリートの壁よりも、蠢く液体や気体に従順な工場という生命体の残骸に郷愁を覚える。