パスカル・キニヤール

キリスト教以前

の本を締め切り前に取り出したりすること自体がおかしいのだが、こういう切羽詰ったときに限ってゆったりと比喩と快楽に満ちた文体に触れたくなるのは誠に困ったものである。何年か前に友人から「アルブキウス」をプレゼントされて感動し、その後「アプロネニア・アウイティアの柘植の板」(奇妙なタイトルだ)を購入した。
僕が古代に遡るにはふたつの道がある。ひとつは塩野七生さんの「ローマ人の物語」のようなスケールの大きな散文を読む場合。もうひとつが、パスカルキニヤールのような本や、ナグハマディの写本のように不思議な書物や古代の文献から遡る場合。昔から歴史が好きで壮大な叙事詩を読むことも嫌ではないのだが、最近は特に後者のアプローチに快楽を見出すことが多くなってきた。まず本を読む姿勢がふたつの本では非常に異なる。塩野さんの本は大著なので、半日くらい時間のあるときにソファベッドに寝転がって一気に読んでしまう。もちろん読み終えるとトロイを見たあとのようにその時代に浸りきって、気分はローマの皇帝のようになっているのが可笑しい。
しかしパスカルキニヤールの本は、一行の間で数時間漂うこともあったり、ワインを取りに二階にあがって、またデッキに降りてきたり、タバコに火をつけたり、ぼんやり遠くを見ていたりである。別に落ち着きが無いわけではないのだが、儀式として彼の本に身体が同期しているような気がするのである。とにかく順序とか階層がどうでもいいのである。フィネガンのようなあからさまなものではない、実に官能的なカタストロフが行間や文体のずれのなかで起こる。

読書の楽しみの真髄はこんなところにあるのかもしれない。実用や興奮とはほど遠いところで、脳や言葉や身体が揺れる光景を楽しみながら、いつしか大きな嘘のなかに心地よく落ちてゆく自分をみつけるのだ。