COOLJAPANとARTIT

COOLJAPAN&ARTIT

この出版不況のご時世に勇ましく船出したARTITが快調に飛ばしてる。僕の友人やゼミ生からも買ってますよという声をよく聞くようになった。日本ではなかなか出版されることのなかった本格的な現代美術の雑誌であり、バイリンガルであるということもさることながら、この雑誌が画期的なのはその価格にあるのではないかと僕は考えている。
1200円を高いと思うか安いと思うかは別として、お金の使い方を間違っている学生に「買いなさい!」と断言できる価格が微妙なのだ。おそらくこの価格にはアーティストやライターの人たちの涙ぐましいボランティア精神が傾注され、当然収益ベースと考えられる価格より大幅に安く出しているというのが実情なのだと思う。
しかし蛮勇を奮ってとは思わない、今アートの雑誌や本を出すことが非常に重要な時期を迎えているという実感が確かにある。村上隆の活躍や六本木ヒルズ森美術館はいろいろな批判はあるものの、現代美術の認知に大きく貢献していることは見逃せない事実である。西の方を見れば直島にはベネッセのすばらしい施設もあって、おや?と思う人までが実に自然に現代美術に触れるようになってきている。この流れに参入している新しい人々は、かねてゴッホピカソと言えば長蛇の列を作り、世界美術全集と百科事典とピアノが文化三種の神器であった時代を支えた人々とは明らかに異なる気配がする。
僕が知るだけでも80年代のブルータスやセゾンの活動に始まり、実に多くの人種が入れ替わり立ち代り現代美術の周辺を通り過ぎていった。そして消えてしまった人々や会社は数知れない。しかし小山ギャラリーを筆頭にこの時代を確信を持って生き抜いてきた精鋭も両手にあふれるほどになっている。何がこの差を分けたのか、何が消え去り何が残ったのか。
秘密を解く鍵は意外なことに価格(ユーザーの立場)なのではないだろうかと思うのだ。身近な友人や時代に敏感な人たち(おおむね最初は貧乏だ)が買える価格。痛みや喜びを共有できる価格。ついつい日本人はお金の話を言うと品が無いと片付けるが、実は価格こそが誠心誠意をもっともよくあらわしているのかもしれない。

「COOLJAPAN」の出版記念講演のあと関係者からの一言が気になった。「実はもっと高くてもいいと思ったのです」。その一言に僕はひどく落胆した。既存の富裕層に安直に依存し、時代の精神を発掘するのだと言う現代美術の気概はどこにもなかった。サブカルチャーや日本のアンダーグラウンドのエネルギーを肯定する編集を行いながら、高い価格(ある種の権威)という過去のOSを選んだ瞬間、ゴッホピカソ展に長蛇の列を為す思考停止状態を容認したことになる。